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曹 真(そう しん、? - 231年(太和5年)3月〔『三国志』魏志「明帝紀」〕)は、中国三国時代の魏の武将。字は子丹。曹操の従子(おい)〔『三国志』「曹真伝」にある裴松之註の『魏書』による。〕。父は曹邵(曹操の同世代の親族。異説として秦伯南)。子に曹爽ら。『三国志』「諸夏侯曹伝」に伝がある。 曹操・曹丕(魏の文帝)・曹叡(明帝)の三代に仕え、魏の建国後は宗室の筆頭格の一人として重きをなした。曹叡の代に、蜀漢の北伐から領土を守った。 == 生涯 == === 若き日 === 190年(初平元年)〔『三国志』魏志「曹真伝」の裴松之の注に引用される『魏書』には、父は初平年間に、曹操が挙兵した時に呼応して兵を集め曹操に従ったが、豫州牧黄琬が曹操を殺そうとした際、曹操は難を逃れたが父は殺された、とある。ただしこれは黄琬が189年中に豫州牧から司徒に遷っていると記されている『後漢書』「献帝紀」の記述と矛盾する。〕、父は曹操が挙兵した時に一族として呼応した。しかし、董卓方だった黄琬と悶着を起こして殺害されてしまう〔裴松之が注釈として引く『魏略』によると、曹真の姓は元来は秦氏で、父の秦伯南は曹操と親しい間柄であった。興平の末年、曹操は袁術とともに盗賊の討伐に向かったところ、逆に盗賊に追われることとなり、秦伯南の邸に逃げ込んだ。盗賊が邸に来ると秦伯南は自ら門を出て、盗賊に「私が曹操だ」と名乗ったために殺害された。曹操はその功績から子の真に曹姓を名乗らせたとある。〕。曹操は曹真が年少の身で父を失ったことを憐れみ、自らが引き取って他の子と同じように養い、曹丕と起居を共にさせた〔『三国志』魏志「曹真伝」。〕。 ある日、曹真が猟をしている時、虎に追われてしまったが、馬上から後ろ向きに矢を放ち、虎を倒した。曹操はその勇敢さを褒め、自らの親衛部隊「虎豹騎」の隊長とした。霊丘の賊を討ち、霊寿亭侯に封じられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「曹真」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Cao Zhen 」があります。 スポンサード リンク
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